ボクシングのIBF女子世界アトム級王座決定戦が4月7日(火)に後楽園ホール(東京)で行われる。元同級王者、同級1位の山中菫選手と戦うのが、日本バレーボール協会(以下、JVA)で勤務する同級3位の鵜川菜央さんだ。小学2年生で始めたバレーボールと、大学4年生時から熱中し、今やプロとして戦うボクシング。そのどちらも経験したからこそ、見えた世界がある
好きになり、一度は離れた
バレーボール
三迫ジムに移籍したプロ第3戦から、鵜川さんの試合ウェアには、「TSUNAGU CHIKARA」という文字が刻まれている。これは、JVAの「『つなぐ力』を、社会のために。JVA SOCIAL ACTION」という取り組みを表すもの。協会のホームページには、そこに込めた思いがつづられている。
「仲間を思いやることの大切さ、仲間と力を合わせることの可能性。バレーボールが教えてくれることには、社会をよりよくする力がある」
高校バレーを引退して10年以上が経った今なら、鵜川さんはその意味がよくわかる。
「ボクシングでも、バレーでも人のつながりをとても感じていて、それがほんとうにパワーになっています。当時は自分が目立ってなんぼ、と考えていましたが(笑) 自分を理解したうえで、もう一回バレーボールをしてみたい。リベロとかをやってみたいですね」
2024年6月14日、プロデビュー戦から負けなしでつかんだWBO女子アジア太平洋アトム級王座。ふだんはJVAで働く異色のボクサーの原体験は、バレーボールにある。
幼いころから、一瞬の世界に生きるアスリートに憧れた。特にオリンピックでは、卓球、柔道、バレーボールと、テレビにかぶりつくように応援した。小学2年生時、卓球の体験練習に行ったはずが、心を奪われたのが同じ体育館で行われていたバレーボール。そこから競技に触れるようになり、4年生時には津田JVC(兵庫)で本格的に競技を始めた。
小学生時からチームの中心選手としてプレーしてきたが、飾磨西中(兵庫)時代の役割は“裏エース”。現在も行われる4人制のビーチバレーボール大会「湘南カップ全国中学生ビーチバレー大会」では3位になったが、打力の高さというよりは、スキルで勝負するタイプの選手だった。レシーブを含めた後衛でチームを支えても、前衛で苦しむ。多くのバレーボーラーが直面する壁に、鵜川さんもぶつかった。
「ほんとうはバチーンと打ちたいのに、ふにゃんとしか打てなくて(笑) 自分が前衛にいったら、(ローテーションを)早く回したいけど点が取れない。情けないな、と思っていました」
小、中、そして姫路西高(兵庫)でもキャプテン。楽しくて始めたはずの競技だったが、中学、高校と続けていくうちにその気持ちは薄れていく。プレー中はもちろん、6人の思いもつながなければ勝てないのがバレーボール。だが、その鉄則に向き合えない自分がいた。
「あまり強いチームではないからこそ、それぞれのモチベーションもバラバラ。なんで、まじめにやらない人の分までキャプテンがやらないといけないのかが疑問でした。やる気がないならやめれば? とまで思っていました」
最後の春高県予選の記憶は、「たぶん1、2回戦ぐらい」で負けた。関西学院大に進学しても、「絶対にやりたくなかった」とバレーボールに関わる選択肢はなかった。
しかし、「先輩たちが輝いて見えた」と入部した体育会の広報機関・体育会学生本部編集部で、思わぬ再会があった。大学3年生時には男子バレーボール部の担当に。菰方大貴氏ら、翌年の全日本インカレでベスト8に入るメンバーの勇姿を記者として追いかけた。
「すごく楽しくて、バレーの見方はそこでまた変わりました」
就職活動ではスポーツ関係の仕事に手あたり次第に応募し、真っ先に内定が出たのがJVA。「何かの縁かな」。一度は離れたバレーボールの世界に、再び飛び込んだ。
取材者から選手になった
ボクシング
『関学スポーツ』時代、のめり込んだスポーツは一つではなかった。「こんなに熱い世界があるんや」と魅せられたのがボクシング。そのおもしろさを、少しでも多くの人に伝えたい。プロの試合動画を繰り返し見て、漫画『はじめの一歩』を読み込んだ。部活動を引退した大学4年生時には、かつてのアスリート心に火がついた。
「大学の部活を経て、自分も運動したい気持ちを再認識しました。本気でやるなら、やったことがあるビーチバレーか、ボクシングかな、と考えて。でも、ビーチバレーは周りにできる環境がなかなかなかったので、とりあえずボクシングをやってみよう、と思って始めました」
ジャブから始まり、ストレート、そしてフック。着実にステップを上がる過程がうれしかった。転機になったのは、就職を機に東京のジムに入ったこと。一般会員ではなく、プロ会員にならないと本格的な指導を受けられないことを知ると、「ただボクシングがうまくなりたい」という思いから、大きな一歩を踏み出した。
「もともとプロになりたかったわけではなかったので、プロになる抵抗もありました。でも、小さいときからスポーツ選手になりたい気持ちがあって、年齢的にもここがラストチャンスという思いも大きかったです。だから、プロでやります、と言いました。
『女子がプロボクサーなんて』と言われたし、自分でもそう思いました。でも、今振り返ると、遅いと思ったとしても絶対にやったほうがいい。飛び込んでみることは大事だと思います」
グローブをはめて5年が経った、2022年4月26日。プロボクサーとして、これまで何度も見てきた後楽園ホールのリングに立った。
「めっちゃ感動しました。リング上で泣きそう、というか、泣いていました(笑)」
2-0の判定勝利。それから三迫ジムへの移籍も経て、負けなしの3連勝を飾る。拳を交わし合う相手、そして何より自分自身に勝てるのか。もがきながらも壁を乗り越えていくなかで、人としての器が大きくなった。
「デビュー戦から試合は気が重かったですが、特にいっぱいいっぱいになってきたのはここ3戦ぐらい。スパー(リング)や試合では、『怖いし、逃げたい』という思いもありました。めっちゃ殴られて、できると思っていたことができない。物理的にも、人としても、自分は弱いと言われているみたいでした。
でも、バレーをしていたころは、どこか自分の弱さを認めていませんでした。仕事や勉強でもそう思いたくない自分がいたけど、ボクシングでは認めざるを得ません。自分の努力で歩んできた人生、とも思っていましたが、それは間違いなんやな、って。両親や周りの人も含めて、めちゃくちゃ支えられていたことに気づくことができました」
デビューから負けなしの5連勝で迎えた2024年6月14日。WBO女子アジア太平洋アトム級王座決定戦を2-1の判定で制した。ボクシング仲間や、家族、そして友人たち。会場に響き渡る「鵜川コール」は、これまでの人生を表しているようだった。
支えてくれた人たちへの
感謝を胸に
鵜川さんがリングに立つその日だけ、後楽園ホールはバレーボール関係者に包まれる。これまで会場に来ることがなかったであろう人たちが、「頑張れ!」と声をからす。
「バレー関係の人たちがどんどん来てくれるようになって、その輪が広がっているように感じます。この環境でなかったら続けられていなかっただろうし、理解してくださる方も多い。ほんとうにありがたいです」
平日は毎日9時30分から17時30分まで働き、18時半から練習へ。プロ転向を決めたころは副業が認められていなかったため、業務委託契約に切り替えて仕事を続けることができた。大会運営事業本部の一員として天皇杯・皇后杯などを担当し、現在はハイパフォーマンス推進チームに所属。日本代表として活動する選手たちをサポートしている。「仕事が大変なときはボクシングで息抜きをして、逆にボクシングで頭がいっぱいのときは仕事に集中する。いいメリハリができていると思います」と感謝する。
だからこそ、JVAをはじめ、支えてくれた人たちの思いに応えたい。昨年1月21日には初防衛に成功。8月には右手首の手術を経て、久しぶりのビッグマッチへ挑む。相手は「自分とは正反対なパワフルなタイプで、どこからでも前に出てくる。女子の中でも倒す力はずば抜けている」という山中選手だ。
試合を2週間後に控えた取材時は「緊張して息が苦しい」と明かし、インタビューが始まってわずか50秒で熱い思いがこみ上げた。「ドン引きしないでください」と笑って一度は感情を抑えたが、再び世界戦の話題になると涙があふれ出す。一人の力で戦っているわけではない、と心から感じるようになった。
「自分のためだけだったら、世界戦の舞台に立てるだけでもいい、という考えもあったと思います。でも、相手は格上だけど、ジムも、担当してくれるトレーナーの方も絶対に勝てると言ってサポートしてくれる。周りの人、応援してくれる人たちのためにも絶対にあきらめたらあかんな、って。自分だけなら勝てるとは思えなかったけど、勝てる、絶対に勝ちにいく、という思いになりました」
バレーボールとボクシング。団体競技と個人競技。球技と格闘技。交わるはずのない2つのスポーツに打ち込んだからこそ、見えた世界があった。「つなぐ力」がもたらす意味を、決戦のリングに刻む。
うがわ・なお
1995年12月8日生まれ
姫路西高→関西学院大
身長160㎝
文・写真/田中風太(編集部)
■JVAが新リーグ「日本バレーボールリーグ(Vリーグ)」を創設 男子16チーム、女子8チームが参戦予定
■ネーションズリーグ2026 第3週日本大会は男女とも大阪市で開催
