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春高2024

渕江中のマネジャー野口晃生 選手から転向し全国制覇を支えた

  • 編集部取材
  • 2022.03.18

 『月刊バレーボール』で現在発売中の4月号の連載(「それいけ!! NEW GENERATION」vol.49)に登場する川野琢磨(渕江中)。その彼が、感謝の思いを伝えたチームメイトがいた

 

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<野口晃生(のぐち・こうせい)/渕江中〔東京〕3年/身長171センチ/マネジャー,ミドルブロッカー>

 

 2021年夏の第51回全日本中学校選手権大会(埼玉全中)で7年ぶり2度目の日本一に輝いた男子の渕江中(東京)。エースを務めた川野琢磨はその後、昨年末のJOCジュニアオリンピックカップ全国都道府県対抗中学大会でも東京都選抜として優勝を果たすとともに、自身も最優秀選手賞に輝いた。

 

 その川野が優勝を手に、「感謝の気持ちを伝えたかった」と話すチームメイトがいた。同じ3年生で最後のシーズンは渕江中のマネジャーを務めた野口晃生(のぐち・こうせい)である。

 

 「(野口)晃生は自分たちの代が始まった当初から副キャプテンとして、キャプテンの本多心と一緒にチームをまとめてくれていました。それに、チームのお手本になっていた選手だったんです。だからこそ、最後は一緒にプレーしたいと思っていました。

 

 試合に出られない悲しみは本人がいちばん大きかったはず。それでもマネジャーとして大きな支えになってくれましたし、僕たちは優勝というかたちで恩返しができてよかったです」

 

 元々、野口はミドルブロッカーとしてレギュラーを務めていた。部活動でも普段の日常生活でも勤勉で、自分にも周りにも厳しい。「だめなことはだめ、と言ってくれる」(川野)存在で、チームへの貢献度は計り知れないものがあった。

 

 だが、昨年春に病気を患い、治療に専念するため、プレーヤーを断念。最後のシーズンはマネジャーに転向した。

 

 中学バレーを引退した本人に、日本一の仲間たちとの思い出を振り返ってもらった。

 

<写真中央のMのバッジをつけたのが野口。右から3番目の④が川野>

 

全国大会1週間前に復帰し、マネジャーに専念

 

――マネジャーに転向するまでの経緯を聞かせてください

野口 昨年の4、5月あたりから病気の症状が出るようになって、学校に通うことも難しくなっていたんです。回復するにも時間がかかるものでしたし、バレーボール部のみんなに迷惑をかけているな、という思いがありました。それにコロナ禍で、少しでも体調を崩すと、体育館に入ることもできない状況でした。

 

 ただ、チームから離れたときに、僕が入っていなくても、代わりのミドルブロッカーがしっかりとプレーしていたのを見て安心しました。病気から回復して、ようやくチームに戻れたときには温かく迎え入れてくれて、うれしかったです。

 

 戻ったのは、埼玉全中の1週間前です。プレーができていなかった期間が長かったので、先生とも話し合い、マネジャーに専念することに決めました。

 

――マネジャーになると決めてからは、どんな思いで過ごしていましたか?

野口 当時はまだ満足に体も動かせなかったですし、バレーボールができないぶん、とにかく声をかけて、「みんなのために、できることをやろう」と思っていました。

 

 大会本番では、ドリンクの補充やユニフォームの配布、またメンバー表と実際のオーダーが間違っていないかの確認や、ウォータータイムアウトでの確認事項を先生と話し合ったり、逆に何を伝えたいかを先生に確認したり、と役割はたくさんありました。

 

――その埼玉全中では、優勝に輝きました

野口 (キャプテンの本多)心を中心に、一人一人が声を出していました。それに「これが最後の大会なんだ」という自覚がだんだんと、はっきり見えてきて、最後はチームが一つになって戦えたと思います。

 

 印象に残っているのは、(川野)琢磨が一枚ブロックで相手エースを仕留めた場面です。それに、長嶋大成がサービスエースを決めたときも、盛り上がりました。

 

 優勝したときは、戦ってくれたみんなに「ありがとう!!」と伝えました。

 

<21年の埼玉全中決勝で川野<コート奥>がブロックシャットを決めた>

 

>>><次ページ>どんどん発言し、厳しく振舞える野口のルーツ

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